健康ってなんだろう うつになって気づいたこと

抑うつ状態になった経験から、気づいたことを共有させていただきたいと思います

勉強について

あなたは勉強が好きですか?

 

私は学生のとき、テストが好きでした。少なくとも、退屈な授業よりは楽しいと感じていました。どんな問題が出るか、この教授はどんな問題を作るか、そういうスリルを楽しんでいたのだと思います。

 

ところが、社会人となり仕事を始めると、勉強が嫌いになりました。というか、勉強そのものがイヤというより、日々忙しくて時間が無いなか、疲れているのに勉強に時間を取りたくありませんでした。けど、日々の仕事を通じて勉強しなければ、担当する業務や専門知識も深まりません。そうしたマイナスの感情が、間接的に勉強を嫌いにしていったのだと思います。

 

休んでしばらくしてからは、体調がよいこともあり、読書をしています。専門分野の勉強も始めました。最初は億劫でしたが、関連した経験を積んでいることから、あぁそういうことなのか、という繋がりが見えて、今では楽しく勉強を続けています。

 

本記事では勉強の良さと方法について、私なりに改めて考えたことをお話させていただきたいと思います。

 

勉強が好きになったのはいつのことでしょうか。私は小学生の頃、算数が得意で問題を楽しく解いていたのですが、高校生のときには数学が難しいと感じていました。微分積分がよくわからない。あと、ベクトルも。数学がちょっと嫌になりました。

 

でもそんなとき、どんな偉人でも、生まれたときから積分を解けるわけじゃないだろうとそのとき考え直したことを覚えています。つまり、あのニュートンでさえも、赤ん坊の頃から微分積分を理解していたわけじゃないと、屁理屈を立てたのです。それらの知識は後天的に得たのだと。やる気を出すには、私にとってそれで十分でした。あとは時間の問題だけです。

 

さて、大学に入ると、もっと難しくてびっくりしました。高校の勉強は何だったんだと思いました。ただ、それも同様の考え方により、時間の問題だと思っていました。やってやれないことはないだろうと。今まで日本で何万人の人が単位を取って卒業しているんだと。世界規模でみたらもっと多いんだと思い直したのです。

 

こうして書いてみると、本当に勉強が好きだったのかどうか怪しいですね。少なくともテストは好きでした。それは解放感なのかな。単位を落とすという危険地帯のそばを通るドキドキ感と無事にくぐりぬけた後の達成感が好きだったのかもしれません。

 

そして、社会人になり、勉強はしていませんでしたが、読書はしていました。最初はほとんど惰性で読んでいたのですが、しばらく続けていくと、自分に合う本と合わない本がわかってきました。そして、面白いと思う本を見つけることが簡単になったのです。そうして、どんどん読書を進めていきました。

 

こうして本を読んでいたある時、ふと思い当たったのです。本って面白いな、奥深いなと。著者と会話をしているような、著者の人生を垣間見ているような、そういう感覚を持ちました。そして、それを新たな楽しみに、この本にはどんなことが書いてあるのだろうとさらに読むペースが上がっていきました。

 

休む直前、その時は仕事でへとへとになり、本を読んでいませんでした。が、体力が戻ってきてから読書を再開してみると、新たに気づいたことがあったのです。それは、本には著者の人生が集約されており、その本を読むことによって、自分はその人の人生を糧にして、自分を何歩も先へ進ませてくれるものだということです。

 

具体的には、健康についてある本を読んだときの事でした。著者はたしか70歳を超えており、海外でも実績のあるお医者さんでした。その人の経験と観察から、健康に関する事実と推定がわかりやすく述べられており、そしてそれは全体として一本の筋が通っているように私は感じました。それは私にとって思いつくものではなく、また、その著者の経験はとうてい私にできるものでなく、もしできたとしても同じように70年が必要になります。その膨大な知見を、本を一冊読むことによってその一部を享受できる。それはとてもありがたいことだと思いました。また、その著者は自分で実践していることについても、本文に書いてありました。それを偉いなあと思いました。そして、私はその知識を有難く受け取り、素直に、実践に移すことができたのです。

 

実際にやってみると、案外違うぞ、という事柄がでてきます。そんなときは遠慮なく、私なりに変化を加えて試してみることにしています。上記で一本の筋が通っていると言いましたが、正確に言うと、バランスが取れているという感覚です。なんというのか、上下極端な領域ではなく、あっちへ傾きこっちへ傾き、でも、その糸は切れないで保つことができている。そのようなバランス感覚があるのだと思いました。

 

ですので、私なりに工夫するということは、私なりのバランス感覚を探すということでした。そのバランスがいつ見つかるのかはわかりません。健康の場合はあっちへいったりこっちへいったり、そうして体調のバランスを整えている状態そのものなのかもしれませんね。つまり、健康は、ただ一つの絶対的答えではないのかもしれません。

 

このように、勉強するということは、以前の私にとっては義務感のような、そしてスリル半分楽しみ半分のものでした。そして、その義務を果たせない時は焦り、日々の生活の忙しさも重なり、疲弊していったのです。

 

一方、休みはじめてから気づいたことは、勉強とは、ただ覚えるだけではないということでした。そして、著者の経験ひいては人生に触れるということ。あたかも会話をしたかのように示唆に富んでいます。

 

そして、その知識を自分のものにするためには、必ずしも、すべてを覚える必要はありません。自分のなかに一度取り込んでみて、生活のなかで試し、改良するのです。私にとっては、自分に通過させる、という感覚があります。

 

覚えるに越したことはありませんが、今必要でなくても、いつか必要になったとき思い出せればそれで十分。今は必要ないと私が思っていても、著者が本に書いているくらいなのだから大事なことなんだろうと、頭の片隅にでも入れておけば、必要な時に思い出せるかな。そうだったらいいな、という感じです。

 

そうすると、気楽に勉強ができます。また、ある本を読んでいるときに、思いもよらない観点や知識に出会うと、とてもうれしくなります。そうするとますます勉強が好きになります。それは専門書でも同じです。

 

自分を拡げることができるのです。ただし、自分の核というか経験をベースとして、一度試してみようか、と取り入れることが大切です。少なくとも、できない知識を貯め込んで、他人に振りかざすかのように見せつけることは良くないと思うのです。

 

また、自分の感覚が広がった分、生活のなかで気づくところが増えているはずです。そしてそれを受け止めて、あれこれ試してみれば、もっと勉強を楽しめそうです。

 

そうした予感を皆さんと共有できましたら幸いです。