健康ってなんだろう うつになって気づいたこと

抑うつ状態になった経験から、気づいたことを共有させていただきたいと思います

勉強について

あなたは勉強が好きですか?

 

私は学生のとき、テストが好きでした。少なくとも、退屈な授業よりは楽しいと感じていました。どんな問題が出るか、この教授はどんな問題を作るか、そういうスリルを楽しんでいたのだと思います。

 

ところが、社会人となり仕事を始めると、勉強が嫌いになりました。というか、勉強そのものがイヤというより、日々忙しくて時間が無いなか、疲れているのに勉強に時間を取りたくありませんでした。けど、日々の仕事を通じて勉強しなければ、担当する業務や専門知識も深まりません。そうしたマイナスの感情が、間接的に勉強を嫌いにしていったのだと思います。

 

休んでしばらくしてからは、体調がよいこともあり、読書をしています。専門分野の勉強も始めました。最初は億劫でしたが、関連した経験を積んでいることから、あぁそういうことなのか、という繋がりが見えて、今では楽しく勉強を続けています。

 

本記事では勉強の良さと方法について、私なりに改めて考えたことをお話させていただきたいと思います。

 

勉強が好きになったのはいつのことでしょうか。私は小学生の頃、算数が得意で問題を楽しく解いていたのですが、高校生のときには数学が難しいと感じていました。微分積分がよくわからない。あと、ベクトルも。数学がちょっと嫌になりました。

 

でもそんなとき、どんな偉人でも、生まれたときから積分を解けるわけじゃないだろうとそのとき考え直したことを覚えています。つまり、あのニュートンでさえも、赤ん坊の頃から微分積分を理解していたわけじゃないと、屁理屈を立てたのです。それらの知識は後天的に得たのだと。やる気を出すには、私にとってそれで十分でした。あとは時間の問題だけです。

 

さて、大学に入ると、もっと難しくてびっくりしました。高校の勉強は何だったんだと思いました。ただ、それも同様の考え方により、時間の問題だと思っていました。やってやれないことはないだろうと。今まで日本で何万人の人が単位を取って卒業しているんだと。世界規模でみたらもっと多いんだと思い直したのです。

 

こうして書いてみると、本当に勉強が好きだったのかどうか怪しいですね。少なくともテストは好きでした。それは解放感なのかな。単位を落とすという危険地帯のそばを通るドキドキ感と無事にくぐりぬけた後の達成感が好きだったのかもしれません。

 

そして、社会人になり、勉強はしていませんでしたが、読書はしていました。最初はほとんど惰性で読んでいたのですが、しばらく続けていくと、自分に合う本と合わない本がわかってきました。そして、面白いと思う本を見つけることが簡単になったのです。そうして、どんどん読書を進めていきました。

 

こうして本を読んでいたある時、ふと思い当たったのです。本って面白いな、奥深いなと。著者と会話をしているような、著者の人生を垣間見ているような、そういう感覚を持ちました。そして、それを新たな楽しみに、この本にはどんなことが書いてあるのだろうとさらに読むペースが上がっていきました。

 

休む直前、その時は仕事でへとへとになり、本を読んでいませんでした。が、体力が戻ってきてから読書を再開してみると、新たに気づいたことがあったのです。それは、本には著者の人生が集約されており、その本を読むことによって、自分はその人の人生を糧にして、自分を何歩も先へ進ませてくれるものだということです。

 

具体的には、健康についてある本を読んだときの事でした。著者はたしか70歳を超えており、海外でも実績のあるお医者さんでした。その人の経験と観察から、健康に関する事実と推定がわかりやすく述べられており、そしてそれは全体として一本の筋が通っているように私は感じました。それは私にとって思いつくものではなく、また、その著者の経験はとうてい私にできるものでなく、もしできたとしても同じように70年が必要になります。その膨大な知見を、本を一冊読むことによってその一部を享受できる。それはとてもありがたいことだと思いました。また、その著者は自分で実践していることについても、本文に書いてありました。それを偉いなあと思いました。そして、私はその知識を有難く受け取り、素直に、実践に移すことができたのです。

 

実際にやってみると、案外違うぞ、という事柄がでてきます。そんなときは遠慮なく、私なりに変化を加えて試してみることにしています。上記で一本の筋が通っていると言いましたが、正確に言うと、バランスが取れているという感覚です。なんというのか、上下極端な領域ではなく、あっちへ傾きこっちへ傾き、でも、その糸は切れないで保つことができている。そのようなバランス感覚があるのだと思いました。

 

ですので、私なりに工夫するということは、私なりのバランス感覚を探すということでした。そのバランスがいつ見つかるのかはわかりません。健康の場合はあっちへいったりこっちへいったり、そうして体調のバランスを整えている状態そのものなのかもしれませんね。つまり、健康は、ただ一つの絶対的答えではないのかもしれません。

 

このように、勉強するということは、以前の私にとっては義務感のような、そしてスリル半分楽しみ半分のものでした。そして、その義務を果たせない時は焦り、日々の生活の忙しさも重なり、疲弊していったのです。

 

一方、休みはじめてから気づいたことは、勉強とは、ただ覚えるだけではないということでした。そして、著者の経験ひいては人生に触れるということ。あたかも会話をしたかのように示唆に富んでいます。

 

そして、その知識を自分のものにするためには、必ずしも、すべてを覚える必要はありません。自分のなかに一度取り込んでみて、生活のなかで試し、改良するのです。私にとっては、自分に通過させる、という感覚があります。

 

覚えるに越したことはありませんが、今必要でなくても、いつか必要になったとき思い出せればそれで十分。今は必要ないと私が思っていても、著者が本に書いているくらいなのだから大事なことなんだろうと、頭の片隅にでも入れておけば、必要な時に思い出せるかな。そうだったらいいな、という感じです。

 

そうすると、気楽に勉強ができます。また、ある本を読んでいるときに、思いもよらない観点や知識に出会うと、とてもうれしくなります。そうするとますます勉強が好きになります。それは専門書でも同じです。

 

自分を拡げることができるのです。ただし、自分の核というか経験をベースとして、一度試してみようか、と取り入れることが大切です。少なくとも、できない知識を貯め込んで、他人に振りかざすかのように見せつけることは良くないと思うのです。

 

また、自分の感覚が広がった分、生活のなかで気づくところが増えているはずです。そしてそれを受け止めて、あれこれ試してみれば、もっと勉強を楽しめそうです。

 

そうした予感を皆さんと共有できましたら幸いです。

部屋の片づけをしてから、買い物の傾向が変わったこと

あなたは部屋の片づけをどれくらいの頻度でしているでしょうか?

 

私はいまでは、ほぼ毎日です。といっても、散らかった状態からキレイにする、というよりは、キレイな状態が崩れそうなところを見つけたらさっさと対処してしまう、という感覚に近いです。

 

そんな私は、休む前は、散らかった部屋を片付けないといけない、とすら思わず、最低限、ゴミを捨てて部屋が臭くならないようにする程度でした。

 

いまでは、日中、部屋の隅々まで見て片付けています。といっても、眼光鋭く、何かにつけてとっちめてやろうとしているのではなく、何かできることはないかな、とキョロキョロと部屋を見渡し、やっぱりキレイだ、することはないなと思えば気持ちがよく、おっ、これはよくないぞ、なんとかせねばと散らかった場所を見つけたら、嬉々として片づける。休む前の自分が今の私を見れば、どうしちゃったんだと怪しむくらい、習性が変わりました。

 

この記事では、片づけを始めようとしたきっかけ、そして片づけを通して私が実感した効果についてお話させていただきたいと思います。

 

療養当初、私は毎日お昼頃まで寝ていました。今思えば、起き上がろうと思えば、起きることができたのかもしれません。ただ、どうしても、身体が重い、実際目を閉じれば眠ることができたので、そのまま寝ていました。

 

その睡眠が回復につながったのでしょうか、なんとなく、何かしたくなりました。が、身体が重いので寝転がったままです。で、寝転がったまま、何かすることないかな、と考えました。

 

考えても頭がすぐに痛くなるので、考え続けることはできません。考えることをやめた私にできることは、いま目に映っているものをみることだけでした。つまり、ある日、部屋をぐるっと見渡すときがあったのです。

 

散らかってるなあ。そう思い、また、部屋の隅を見るとホコリが溜まり始めています。

 

乗り気はしなかったのですが、と言ってもほかにすることもなく、それなら片づけをしてみようかと思いました。が、今すぐにではなく、数日後だったと思います。

 

どうしようかな、と何かモヤモヤしたものを胸にいだきながらしばらく過ごしました。そして、ある日、ええい、もうやっちゃえ、と一歩踏み出し、片づけを始めました。

 

まず最初は、要らないものの整理。主に本や書類ですね。要るものと要らない物に分けて袋詰め。最初は要らないものをクローゼットやベッド下に片付けようとしたのですが、収まりきらなかったため要らないものを捨てることにしました。

 

そうすると、意外や意外、気持ちがすっきりしました。これには驚きました。

 

上記で要らないもの、と言いましたが、当時の私の感覚では、持っているものはすべて必要なもの。ですので、仕分けをする際は、今すぐまたは近日中に使うものを必要なものとし、いつか機会があればというものを不要なものとしました。例えばすぐには読まなかったり読む気が起きていない本は不要なものとして分類しました。

 

つまり、近々必要なもの、と、まぁそのうち必要になるだろうもの、で分けたのです。で、必要ないと言ってもそのうち必要になるだろうと私は思っているため、収納に入れようとしたのです。しかし、収まりきらなかった。引っ越すわけにもいきませんから泣く泣く処分することにしたのです。とりあえず、なくても我慢できるものから捨てました。すると、肩の重荷を下ろしたような、とても清々しい心持ちになったのです。

 

その効用は、片づけを始めた当初から目論んでたわけでありませんでした。本当は捨てたくないけど嫌々捨てたら、意外と気持ちがよかったのです。

 

ふと、断捨離という言葉を思い浮かべました。こういうことなのかな、と思い、今の自分なら共感できるかも、と片付けやミニマリストの本を読みました。

 

それからというもの、片づけにはまりました。できるだけ本は処分し、家具も廃棄しました。服も、もう着ないだろうというものや特別着たいわけじゃないものは、もったいないことをしましたがすべて処分しました。

 

スペースが生まれると、何かものを入れたくなります。という元々の私の気質に挑戦するように、空いたスペースも捨てていきました。タンスが一段空くと、そこに財布やベルトなど毎日使うものを百均ケースに分けて入れます。別の一段が空くと色々なファイルを納めます。その分、机の上や棚の上、本棚が空きます。家具なら捨てて、家具のあったスペースには何も置かず、日々掃除してキレイに保つのです。

 

空いたスペースを捨てる、という表現は具体的にイメージしづらいかもしれません。しかし、私にとってはそういう感覚なので、その表現が正しいと思います。

 

なんというか、新たに生まれたスペースに他の何かを入れてみて、それによって生まれた不要な家具を捨て、その分、普段目に留まるスペースがすっきりとし、その心地よさを維持する。家の外から物をどんどんもってきて、せっかく生み出した空きスペースを埋めるのではなくて、今あるものを上手く収めてスペースを集約し、部屋全体をすっきりした状態にする。こういう感覚を伝えたかったです。

 

さて、そうして要るもの、要らないものはどれだろうと繰り返し判断をしていくと、自分のなかである種の軸ができてきます。これは大事だな、とか、これぐらいは無くてもなんとかするよ、というようなもの。そしてそれは買い物にも影響が及んだのです。

 

元々の私は衝動買いが多かったです。いま振返ってみればそう思うだけで、当時の私は衝動買い傾向が自分にあるとは認識していませんでした。買うといっても金額が安いから生活への影響が小さかったのだと思います。

 

たとえば、本屋のなかを歩き回ると、本を二冊くらい買う。これも、毎回ではないですが、目的というか目標というのか、ゴールがあいまいな、意志の薄い買い物をしていたのだと今は思います。ほかにも、クレープが食べたくなる、暑いしアイス食べたいとか。何が何でもダメだとは思っていません。時と場合によると思います。

 

ただ、そういう小さなことから、意志の薄い判断、あいまいな決断というものが私の中に入り込んでいることに気づきました。それが良いとか悪いとかではなく、それぐらいの楽しみは自由にしたい、お金も払えるんだから、という気持ちもわかります。

 

なんといえばいいのか、、、違和感が持ち始めた、というのが私の率直な気持ちです。

 

昔は自販機を見つけたらジュースを買っていました。何かいいのあるかなあって商品棚の端から端まで見回してみて。そして、これ!というものを買っていました。飲んでみると、ちょっと量が多いなというのもしばしば。

 

いまでは自販機を見かけても何も思いません。飲み物が必要かどうか、自分でわかるからです。今のうち飲まないと!とも思いません。昔はアイスでよくそういう気持ちになっていました。今では、陳列を見て新しい商品を見かけても、へぇーっていうくらい。元来、私は新しいもの好きですし、またいつか飲み物がほしいときは、その新しい商品を探して買うことがあると思います。ただ、なかったらなかったで別にいいかなと思うことが増えたのです。

 

そういう変化について振返り、私なりに考えてみました。

 

まず片付けについて。大事なことは、片づけが絶対的に善ではないということ。休む前の私にとって片づけはとても面倒なことでした。でも、片づけをしたくなってからは、善になりました。その時々の違いはモチベーションでした。ただ、自分が無理くり、なんとか心の中から引き出したのではありません。

 

それは自然と訪れるのだと思います。とはいえ、ボーっとしていてもいたずらに時間が過ぎてしまうでしょう。大事なのは、私の場合は、変化がほしいと願ったことでした。その自分の気持ちに気づいて、何かないかなと探し始めたことが、片付けに関する新たな発見につながったのだと思います。

 

一度始めたことを継続するためには、自分にとって良い事、が必要です。私の場合はすっきりしたという実感です。それがモチベーションを持続させ、また、本を読んだりして、もっとよくしたいという思いを加速させることになりました。

 

そして、今、さらに継続することが課題です。最近はホッと一息をつくような、したい気持ちと面倒な気持ちが入り混じっています。それに対して、ゴールを見据えることが必要なのではないかと考え始めたところです。その辺はもう少し試してみて、もし、うまく対処できるようになったら改めて共有させていただければと思います。

 

片付けは気持ちがいい。それは、いつか使うと思って買ったのに使わないで放置している、そういう罪悪感から離れることができるからだと思います。少なくとも私の場合はそう感じました。そして、そのことについて反省します。次からは、本当に欲しいもの、必要なものを選ぼうと。

 

その判断基準はいまだ定かではありません。年齢や状況など、時と場合によって変わりうるのかもしれません。とすれば、その時その時の自分が納得できればそれでいいのだとも思うのです。

 

最近の私の課題は、お菓子とコーヒーを控えることです。ただ、おいしいんですよね。気持ちも落ち着くし。とついつい言い訳して食べて飲んでしちゃいます。でも、今はそれでいいのかもしれません。その気持ちを無理に押さえつける必要はないのだと思っています。もしかしたらお菓子に頼る、他の要因があるのかもしれませんし。生活リズム全体から見直して、自然と実践できる、ちょっと律する気持ちくらいで我慢できる、そういう状態にしていきたいと考えています。

 

最近効果があったことは、朝の支度や朝食の時間を長く取り、ゆっくり過ごすと、お菓子を食べたくなる衝動は和らぎます。その分、早起きしないといけないので、寝る時間やその少し前からリラックスできるように、いろいろ試しているところです。

 

皆さんも、気持ちが乗ったことは、遠慮なく試してみてください。また、気持ちが乗らない時は遠慮なく先延ばしにしちゃいましょう。そのうち、いてもたってもいられないときが訪れるのではないでしょうか。私の場合はそうでした。

 

焦らず、待ちましょう。本記事が皆さんの良いきっかけになりましたら幸いです。

 

掃除の効用

皆さん、掃除は好きでしょうか?

 

私は好きです。休む前はイヤでしたが、いまは好きになりました。

 

なんというのか、掃除ってどうしても手間に思えるのです。できればやりたくないこと。でも、しないと汚れがひどくなるし、におうこともあるし。仕方なくやる、でも頻度は極力少なく。というのが私のもともとの考え方でした。

 

今では違います。モノを大切にする、という気持ちが強くなっています。また、部屋をキレイにすると、不思議と気分が清々しくなります。本当に不思議なのですが、あれほど嫌だった部屋の換気をしたくなります。また、一緒に住む家族も部屋はキレイに越したことはないのでしょう、掃除をすると喜んでくれます。

 

ここでは、掃除に対する私の気づきとコツをお話させていただきたいと思います。

 

小さい頃、私はお風呂掃除と玄関掃除を担当していました。といってもできる日は、という限定付きです。お風呂は足が濡れるのがいやでしたね、冬は寒いし。玄関はキレイになったのかよくわからないことが、より一層、めんどくさく感じました。

 

さて、そんな私が掃除に興味を持ち出したきっかけは、自分の身体を大事にしよう、と休職してから思い立ったことでした。自分の身体の手入れを始めたのです。そうすると、自分の身体が大切なものに感じてきます。今思うと、身体はかけがえのない宝物なのですが、当時休む頃の私は、それがわからないほど、感覚が鈍っていたのでしょう。とにかく、自分の身体を労わり、大切に、キレイにする、ということはとても気分がいいなあと思ったことが、掃除を始める原点でした。

 

その大切にしよう、と思う対象は自分の周囲に広がりました。もちろん、家族も大事です。そして、自分の住んでいる家や所有物まで大事に思えてきました。

 

不思議です。あって当たり前と思っていたものが、急に大事に思えてきたのです。そうすると、現金なもので、部屋の雑多なところや汚れが気になりだしました。

 

部屋の片付けについては別の記事に記載します。かいつまんで言うと、とにかく不要なものを捨てまくりました。

 

汚れについては、掃除するしかない!単純なことに思い至った私は、さっそく掃除を始めました。

 

最初は、部屋全体を一気に終わらせようとしたのですが、どうも無理でした。時間もかかるし、疲れるし。なので、場所を決めて、順々に掃除を進めることにしました。

 

まずは慣れているお風呂場から。掃除する手間を省きたいため、不要な棚やボトルを外したり、石鹸を夫婦でできる限り統一していきました。夕方に浴槽と床を洗うと、どうにも、足が濡れるのが嫌でした。なんとかしたいな、と考えて、お風呂上りなら足が濡れても気にならない、と気づきました。そうして今では、お風呂上りに掃除をしています。浴槽を磨き、洗面器と椅子を磨き、ボトルはタオルで水気をふき取ります。で、浴室のドアを開けて換気。これで一丁あがりです。

 

同じ水回りということで、次は洗面台に取り掛かりました。同じように表の棚に出ているボトルの整理をし、ドライヤーや歯ブラシなど、壁に掛けたり吊るしたりと配置を変えました。実はいまもちょくちょく変えていて、なかなかこれで良し、という配置が決まりません。洗剤は手洗い用の石鹸を使い、台所で使うような布を4分割にカットして、その一つを使って、洗面台を磨いています。蛇口も棚も磨きます。洗面所のドアを開けて換気すれば完了です。

 

リビングについては、至ってシンプル。モノを減らして、フローリング用シートで乾拭きし、二週間に一度くらいは雑巾(不要なタオルを手頃な大きさに切ったもの)を濡らして拭いています。

 

キッチンは、コンロ等毎日使う場所は、使うたびにクロスで拭いています。電子レンジやオーブン、炊飯器は少なくとも二週間に一度は、アルコールを吹きかけるか、クロスで汚れを落としています。

 

最後にトイレ。専用のシートを使用して、タンクの外側から、便器の内側までこすります。便器の中の水が溜まるところも奥までは手を突っ込みませんが、水面ぐらいは磨きます。便座の裏が意外と汚れますね、どうなってんでしょうね。

 

掃除の概要はこのような感じです。自分では、けっこう頑張っていると思っているのですが、人によってはまだまだ!という猛者もいらっしゃるでしょうね。私も本で勉強中ですし、日々、方法は上記と変わるかもしれません。

 

そうそう、ベランダと玄関は、どういう頻度で掃除するか迷いますね。ベランダは手すりに砂埃がすぐ付いてしまいますし、玄関なんて、本当に掃除したのか自分でも怪しむくらい、ホコリが紛れ込んできます。なので、面倒になっちゃいます。このあたりはまだまだ修行が必要ですね。そのうち、気が向いたらやってみます。

 

掃除をやってみて気づいたことは、なんか気持ちがいいぞ、ということでした。磨けばキレイになる、というように、すぐに成果が表れるからかなあと、ぼんやり思っていたのですが、いま改めて考えると、どうやら汚れている状況がなんとなくいやだったのだと思います。そして、その状況が解消された。そうすると、やっぱり、清々しくて心地いい。自分の考えは合ってるじゃないか、よし、また掃除しよう。という感じ。

 

そして、使う度に、キレイになっている、という事実がうれしさを増します。例えば、朝、洗面所で顔を洗う。ふと鏡をみるとキレイです。シンクもホコリがありません。掃除がんばったもんなあ、と思うのです。読書や今のように記事を書いているとき、一息つきながら、ふと部屋を見渡します。キレイに整理された本棚、フローリング、机の周りを見ていると心地よくなります。少なくとも、あっ、きたないなあとイヤな気分にはなりません。それだけでも、大きな効用だと思うのです。

 

さて、掃除は時間もかかるし面倒なもの。と以前の私は思っていました。今ではその逆です。キレイになると気持ちいい。時間は思っていたよりかからないし、掃除をしたいので、掃除をする時間をどのように作るか、と考えています。と言っても私にできることは限られているため、無理のない時間のかたまりを日々確保して、今日はどこそこ、明日はあそこ、と決めているだけです。

 

そう考えると、掃除嫌いから掃除好きになるまでに、私は、大きく二つのステップを踏んでいたといえると思います。

 

まずは、自分や身の回りの物事を大切にしていないと気づくこと。これからは大切にしようと思えること。

 

次に、実際に対処してみて効果を実感すること。気持ちいいなあ、とか、意外と時間かからないなあ、家族も喜んでるなあ、とかです。

 

好きこそものの上手なれ、ってこういうことなのかなと思います。ただ、もともと嫌いであっても、何かをきっかけに好きになることがあります。私にとって掃除のように。そういう転機は自然と訪れるものなのでしょうね。しかも意外なタイミングで。

 

そのチャンスが目の前を通るとき、それに気づいたら、遠慮なくむんずと捕まえて実践してみてください。私も、玄関やベランダ掃除のチャンスが来るまで、他の掃除を頑張りながら、できるだけ目を光らせておきます。もし見逃したって、次のチャンスがまた来るでしょう。

一人の時間を楽しんでいますか

あなたは一人で家に三日間いるとしたら、何をしますか?

 

今の私の状況がそれです。妻は帰省しております。

 

でも、楽しんでいます。こうして記事を書いたり、本を読んだり、掃除したり。むろん贅沢はできず、お小遣いを貯めたり、節約もしているのですが、苦ではありません。むしろ、いまうまくいっているなあ、と少し楽しむ気持ちもあるのです。

 

さて、若い頃の私ならどうしたかというと、おそらく、お出かけするでしょうね。車で街に出ます。お店を見て回ったり、新しい本を買ったり、映画を二本見たり、プチ贅沢な食事をしたり。家でゲームをするのもいいですね。

 

休職前では、そのような時間をとれていませんでした。もう疲れていて、眠たくて。歩くのもしんどいので、買い物に出るのも億劫。本を買っても読んでいませんでした。

 

休んでから一人で喫茶店に行くようになって、一人の時間って大事だなあ、良いなあと気づきました。今日はそのところについてお話させていただきたいと思います。

 

まず、喫茶店についてお話します。もともと私はコーヒーを飲まない人でした。香りは好きだけど、色が黒いので身体にはよくなさそうだと思っていました。ましてや喫茶店のコーヒーは値段たかいし!

 

でもそこを我慢しました。というのも主治医から外出することをお勧めされたからです。お医者さんは私を治そうとしてくれています。なので、一度は素直に言うことを聞いてみようと思ったのです。次の診察までの二週間、平日に毎日通いました。

 

そこの喫茶店は、他のお客さんが静かな方が多かったのもよかったのでしょう。時間がゆったりと流れました。持ってきた本を読んだり、お店に置いてある新聞を読んだりしました。朝に行けばモーニングが付いてきます。追加料金が要らない食事と、追加料金が必要な豪華な食事があります。私は、せっかく毎日来るんだから、全制覇してやろうと毎日違うメニューを頼みました。

 

時には嫌いな食べ物も出てきます。私は乳製品が苦手で、シーザーサラダやドロドロのヨーグルトが好きではありませんでした。それでも食べます。

 

あとから知ったのですが、食べ物の好き嫌いは思い込みらしいですね。小さなころからのアイデンティティーを確保するため、手放して自分が何者かわからないようにならないために、大人になると嫌いなものがさらに強く、嫌いになるそうです。この話を聞いて確かに乳製品って食べられない物じゃないんだからと、半ば自分に呆れながら、好き嫌いを克服しているところです。いまでは、苦手だった納豆を好きになりました。

 

いささか話が脱線しましたが、当時の私は乳製品が嫌いな状態。そしてせっかく休んでいる日に、お金を払って、苦手なものを食べているのです。最初はミスったなあと思いました。どう考えても損だと思ったのです。ところが、まあ、たまにはこういう経験もいいかな、次は絶対ミスらないと決めたのです。

 

そうすると、この経験も糧なんだなと思えてきました。いつか本で読んだことがあるような言葉です。それが自然と浮かんできて、自分の中で納得しました。

 

そうすると、カフェ一つとっても、いろんな体験ができるんだと気づきました。苦手なシーザーサラダを食べる。それはとても些末なことでしょう。世の中にとって、何にも価値はありません。でも、どういうわけか、私にとっては久しぶりの、嫌いなものを食べる、という貴重な経験に思えてきたのです。

 

さて、この喫茶店での気づきが、一人の時間とどのように関わってくるのか。

 

そう、なんていうのか。その貴重な経験はとても個人的なものだったのです。世界には何ら影響を与えません。私一人しか反応しません。ただし、それが私にとって久しぶりのことであり、私にとって貴重なものなのでした。

 

つまり、休む前の私は、私個人をないがしろにしていたのでないだろうか、と思い至ったのです。世のため人のため、または会社のため、家庭のために、日夜頑張っていたのでしょう。

 

そういうことに気を遣うことは大事なことです。決して悪いことではありません。利他といいますか、自分とつながりのある人たちのために頑張ろうと思うこと、行動を起こそうとすることはとても尊いことだと思います。

 

ただ、私が言いたいことは、自分が見えていなかったのではないかということです。自分が見えていないのに、周りとのつながり方は見えません。でも、社会や国、または会社の義務や仕事はその身に押し寄せてきます。

 

つまり、周りだけに目を向けていたのではないか。自分に目を向けることを忘れていたのではないか。あれもしなければ、これもしなければとなっていた。焦っていた。

 

そして、喫茶店に通ったある日、とても個人的な体験をして、懐かしい感覚がよみがえった。

 

本を読むことも個人的なものです。考え事も同じです。また、私の感情の浮き沈みも私だけのものでしょう。あなたのものではありません。

 

そして、あなたにとってのそれらは、あなただけのものでしょう。いくら夫婦でも奪えません、たとえ家族でもコントロールしたり指示したりは基本的にはできません。

 

そうして、自分を大切にする気持ちと同時に、他者を尊重する気持ちが私の中に生まれてきました。

 

すると、不思議なものです。車の割り込みをされてもむかつきません。朝寝坊したり、つい昼寝をしてしまってもイライラしません。私の感情は私の問題であり、次は気をつけると決めたらそれまでのことです。車の割り込みもどうだっていいことです。私の心にまで割り込まれたくありませんし、その人はその人で何か事情があるのでしょう。もしかすると、自分は割り込んだとすら思っていないかもしれません。そんなことは私が考えてもわからないことです。まあ、いいじゃないか、怪我をしたわけじゃあるまいし、と思えます。

 

一方、自分を大事にすると、ある種の攻撃性が生まれます。私は生来、穏やかな、悪く言うと気の弱い性格なのですが、攻撃的な気持ちが芽生えたことに自分でも驚いています。

 

自分を大切にする。家族を大切にする。誰かを大切にする。

 

そうすると、どうしても意見が対立するというか、自分とは異なる人がいるものです。邪魔をしてくるというか、相反することを求めるというか。そんなときはどうするか。

 

基本的には上述の通り、流します。自分とあなたは別なのです。自分がやりたいようにやります。が、自分にムリやり影響を及ぼそうとしたときは別です。

 

まずはいったん、受け入れてみます。忠告してくれるくらいなのだから一理あるのかな、わざわざ今言うくらいだから大事なことなのかもしれない、と内心ムカムカしながら考えてみます。

 

納得できれば取り入れて、納得できなくても許容できるなら試してみて、納得できなくてなんか押し切ろうとしてくるときは闘います。

 

闘うことはあまりないのですが、夫婦喧嘩とかそうですよね。自分はこう思っている、感じたという感情の話。こういう理由でこうしたいと考えている、という意見。話を聞くということと、話すということの違いともいえるでしょうか。

 

話が逸れだしましたが、とにかく、自分個人だけの経験も良いものです。そして、それを大切にすると、周囲の人も個人に見えてきて、尊重できるように、私はなりました。

 

大したことじゃないのになんだか気持ちいいな、とふと思うときがあったら、それは個人的な経験だからかもしれませんね。そうしたものに注目し大切にしてみることをお勧めいたします。

日々の小さなことに”気づく”ということ

あなたは買い物をする前に、何を買うかメモするタイプでしょうか?

毎日、日記をつけるタイプでしょうか?

いつも机の上や服をキレイに片づけているでしょうか?

 

私はどれもしていませんでした。だけど、今は自ら進んでやることができています。

 

といっても、やったほうが絶対いいよ、というわけではありません。あなたにとっていいかどうかは私にはわかりません。ただ、私は、そういうことをしていなかったとき、それらのことがどうも気がかりで後ろめたい気持ちがありました。

 

まずはその気がかりを対処し、対処したからこそ見えてくる良いことや問題点がありました。それはそこに行ってみないと見えてこない光景なのかもしれません。または、ただの想像力の欠如かもしれません。

 

ただ、そういう後ろめたさ、日々の生活のなかに垣間見える小さな違和感。そこに気づき、行動を起こす、ということが大切なのではないかと私は思いました。

 

本記事はそのあたりのことについて、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

 

私は小さい頃から、文字を書くということが苦手でした。というより面倒だったのです。漢字をなぞるのなんてまどろっこしくて、ちょちょい!と書いて、線からはみ出していました。授業のノートなんて取りませんでした。そして、そのまま大学に入学しました。

 

大学は工学部だったのですが、色々な種類の学問があります。私はいつも通りノートを取らず、事前に勉強もあまりせずにテストの日を迎えました。とても焦りました。テスト中、気分が悪くなってトイレに行くぐらい、冷や汗たらたら。そういうことがあって、これからはノートを取ろう、テスト勉強をしっかりしようと思い立ったのです。

 

なぜ、こんな昔のことを書くのかというと、小さいときから字をぱぱっと書き、ノートは取らない、そういうところから現在の私に繋がっているのだなあと思うからです。つまり、なぜぱぱっと字を書くのか、ノートを取らないか。小さい頃は大したことじゃないと思っていました。でも、歳を重ねるについれて、字が汚いとかを気にするようになりました。ノートをとっている友人を見ると、偉いなあと思うようになりました。

 

上記の質問に対する私の答えは、面倒だから、でした。たしかに面倒です。ノートなんて取らなくても、教科書に全部書いてあるし。字だって読めたらいいと思っています、今だって。

 

今思うと、このときの問いがあいまいでした。というか、気になる程度でそれらを相手にせず、自分はどうしたいか問いかけもせずに面倒という気持ちに引っ張られていたと思うのです。

 

改めて問うならば、字は汚いままでいいですか、ノートは無くてもいいですか。ポジティブには、字がきれいになるとどんなにいいことがあるだろうか、ノートをとって授業を真面目に聞くとどういう効果があるだろうか。というかそもそも、自分が納得するまで改良すればよかったのです。

 

ということが当時の私には思い当たりませんでした。そして当然、行動できません。

 

私が言いたいことは、気づく、ということはけっこう大事だぞということです。どれだけ小さなこと、ささいなことに気づけるかどうか。そして、その小さなこと、取るに足らないことにどれだけ大事に向き合えるか。

 

気になる、、、ということを以前の私は大切にしていなかったと思うのです。せっかく気づいたのに。そして、その気づきを無視するとき、心に何か引っかかるというか感情が重くなることに気づきました。

 

なので、最近は、何かに気づいたら、それと向き合うことにしました。

 

といってもやることは簡単です。たとえば、机の上の物の位置。配置が気になるのなら変えてみましょう。テレビやパソコン画面のホコリが気になるのならさっと拭いてみましょう。お小遣いが足りないかも、、、計算してみましょう。

 

そして、それらに対処した後は、とても心地が良いものです。だからこそ私はこれからも、気づいたことに向き合いたいと思うのでしょう。

 

もし、当時の私と同じように日々後ろめたさやなんだかなあと感じる方は、一度、気づきと向き合ってみることをお勧めいたします。そして、試していただいた皆さんにも私と同じような、良い効果がありましたら幸いです。

家庭の仕事ってどうすればいいんだろう

ここでいう家庭の仕事とは、掃除洗濯料理のような家事のことではなく、保険やトリセツ、家計簿等についてです。家事については、やってみて思うところがたくさんあるため、別の記事に書かせていただきたいと思います。

 

あなたは整理整頓は得意でしょうか?

 

私はとても苦手でした。過去形なのは、いま頑張っているところでして、掃除との相乗効果により、なかなかのレベルまで上達していると自分で思っているからなのです!

 

といっても、前よりマシ。という程度であり、もっともっと良くしたいなあと考えています。私が使いやすい状態はもちろんですが、家族みんなが使いやすく、というのが今後の新たな目標になります。

 

いささか話が逸れましたが、上記の保険やトリセツなど、おろそかにできないし、書類も捨てるに捨てられず、かといって放っておいたらかさばるし、必要な時またはふとあれ、保険証書あったかなと不安になったときにはすぐに見つけ出せるようにしたい。

 

この記事では恥を忍んで、今の私の状況を記載させていただきたいと思います。もし、昔の私のように、郵送された封筒に入れたまま引きだしに突っ込んでそれでよしとしていたけど実は心のどこかで不安、という方にとって一助になればと幸いです。また、より良い方法が見つかりましたら、新しい記事として共有させていただきます。

 

さて、まずはターゲットを明確にしたいと思います。

 

・保険証書等 外部からの要請でもしかしたら必要になるかもしれない書類

・トリセツ なくて困るのは自分だけ。だけどあとで困るのは困る。

・家計簿 センチメンタルなものです。ゆるくてもきびしくてもなあ。

 

まず保険証書類。

 

これらは一つのファイルにまとめています。リング型ファイルに、ルーズリーフのようなクリアファイル(百均)を、見出しシールをつけて(百均)閉じています。

 

項目は、保険証書、給与明細、年金、家賃電気水道の明細、医療費受領書、健康診断結果。あと、通信(家ネットやケータイ)のプラン変更記録(ハガキ)も残しています。

 

問題となるのは、いつ捨てればいいか。書類は毎月入ってくるのですが、出すことができていません。まだファイルには余裕があるため受け入れ可能ではありますが、10年後はどうしようかなと考えています。

 

元々は送られてきた封筒のまま百均の箱に入れていました。このときはどこに何があるのかわからない状態。とはいえ、必要になるときはめったにありません。でも、ファイルを統一してから、新しく家に届いた書類たちの行き先が明確になったため、すぐに処理できるようになりました。このフローはとても心地よいです。願わくば、廃棄方法まで決めて、フローを循環に進化させたいのですが、それは今後の課題ということで。

 

次は、トリセツ。

 

これもファイルを買いました。トリセツ用のCD-ROMを収納できるためタイプ。もしファイル一つじゃ足りない場合は、ファイルを買い足そうと思います。値段が高いことがネックですが、はっきり言って面倒だし保存してしまいたい。ネットで検索すればトリセツのデータがあることはわかっているのですが、画面って何かを探すときは特に見づらい印象があるのと、型番を調べることが面倒であり、自分以外の人がトリセツを必要とした時によく頼まれるので、手元に冊子があるほうがいいかなと。めっちゃ言い訳です。ファイル、高かったんです。

 

よく考えれば、ネットからダウンロードして、どこかに共有しておけばいいですね。もうファイルを買っちゃったから次の機会に試します。

 

家計簿。

 

なんて繊細でダイナミックな響きなのでしょう。心が揺れます。子供の頃は見たことがありませんでした。大人になってから初めて意識する、登竜門的存在なのでしょうか。

 

さて、まず、家計簿をどのように使いたいか、が大事だと思います。それは収入がどのくらいあるかで変わります。

 

普通に好きなように暮らしても、十分生活ができて、今後も継続できるし、子供や介護、病気などの出費にも対応できるほどの収入があれば、ただの記録帳でいいと思います。私ならすべてカード払いにして、銀行口座の通帳残高のみをチェックします。

 

しかし、通帳残高を横目に好きに生きられる、ということは私にとっては夢物語。現実はぎりぎりの生活です。

 

というわけで、まずは生活費の配分を夫婦で話し合って決めました。無理のない、今できる金額を割り振ります。それでうまくいけばいいのですが、足りないこともあるでしょう。なんとかできそうなところまで、金額を調整してみました。すると、我が家はなんとか収まりました。

 

さて、あとは各生活費の項目ごとに管理するのみです。我が家は食費日用品、交通費、医療費、家賃光熱費、美容(散髪、コンタクト)、交際費(贈り物、お土産)に分けています。

 

それを週に一度、レシートや自己申告をもとに、ノートに記載していきます。毎月集計し、当初の配分内に収まったかを確認しています。また、特に食費に関しては、外食はそれとわかるように記載しています。回数と金額についてあとで確認できるようにしています。

 

ノートへ記載した後は、レシートを夫婦で見直して、購入した項目をざっと見ていきます。ほとんどが必要なものであれば、もし配分を超えたとしてもほっとします。

 

所要時間は10分くらいだと思います。ノートへの記録から見直しまで。

 

あと、個々にお小遣いがありますので、お互い思い思いの方法で管理しています。

 

私はまず、自分用、へそくり用、家族用にわけています。そして、日当たりの使用可能金額を算出して、日付をざーっと書いていき、その横に日当たりの使用可能金額を記載します。そして、毎夜に、その日に使用した金額を記載し、差額の累計を算出します。といっても、累計はマイナスばかりですね。。。

 

この方法の良い点は、お金の使いどころ、金額の強弱が調整できるという点です。

 

どうしても購入したいものがあるけど累計が足りない場合、それは累計がマイナスとなるのですが、今後何日まで我慢すればゼロに戻るのか、すぐに算出できます。一見当たり前のことなのですが、以前の私にはできていませんでした。こうした目安があることにより、使用金額が予定より大きく外れることはありません。カードの請求書によく発生していた謎の出費、爆発的購買衝動はなくなりました。

 

そして、日々記録することによって、購買傾向も変わります。無駄使いが減ります。一方、どうしても食べたいお菓子やアイスがあると、とてもおいしく感じます。

 

このような形で、私なりに管理を試みています。みなさんの参考になるかはわかりませんが、ポイントを下記に整理しますと、、、

 

書類については一元管理が楽です。だって日々使うものじゃないから居場所がわからなくなりやすい、けど、ファイルで一元化されているとすぐわかる。それだけでだいぶ生活がしやすいです。

 

お金については、まずは自分の実力、できるところを知ること。そして、その月や年の見通しを立てること。日々の実績を記録し、見通しと比較して、このままだと良いのか悪いのかをもとに、生活を立て直すこと。もっと良くする方法はあるかな、と考えること。これがポイントだと、今の私は感じています。

 

最後に、健康とどう関係があるんだ、ということについて書き忘れておりました。仕事を休んでいれば会社に行かなくてもOKです。ただ、それでも、日々の生活は続いていきます。その生活の中で不安なこと、それは書類がどこにあるかなあという小さな不安でもあっても対処するに越したことはないと思うのです。実際、私は上記のルールを定めてから、気分が楽になりました。

 

まずは手の届くところから。。。せっかく仕事をしなくても良い時期なので、生活を見直すことから始めてみてはいかがでしょうか。私にとっては効果がありましたので、お勧めいたします。

仕事の向き不向きについて悩んだこと

仕事って難しいですね。休む前、私はそう思っていました。

 

うまくいくこともあるけど、うまくいかないこともある。むしろ、うまくいかない方が多くて、なんだか気が滅入る。

 

でも今はそう思いません。うまくいかないこともまた、自分にとってエッセンスの一つなのだと思えるようになりました。気が滅入って不安になる、この不安も自分の原動力なのだと気づいたのが最近でした。

 

本記事では仕事の不安への気づきについて、共有させていただきたいと思います。

 

休む前の仕事って、どのような状況でしたか?

 

私はとにかくやることが多くて、そして終わらなくて、なのに仕事の状況は変化し、しかもよりによって悪い方向に動いていき、挙句の果てには身動きが取れなくなりました。あなたはどうだったでしょうか。

 

自分に能力がないのかな、どうしてうまくいかないのだろう、と悩んでしまいます。が、大事なことは現実を見つめることです。そして、対処することだと私は思うのです。偉そうに言いましたが、今思えば、という程度で、私もさんざん悩みました。ここでは振返ってみて今はこう思う、ということを書いていきたいと思います。

 

まず、現実はどうだろうか。

 

休む前の仕事のこと。私にはできる能力がなかったのだろうか。答えはイエスです。正確に言えば、その当時は能力やスキルが足りませんでした。いまは休んでおり体力が落ちているため、おそらく、能力はまだ不足している状況だと思います。

 

どうしてうまくいかなったんだろう。だって、能力が足りないのだから仕方ありません。失敗するべくして失敗し、無理を続けたからこそ身体を壊してしまったのです。

 

ここでうんうん悩みます。私はだいぶ悩みました。苦しかったです。でも、今思うと、悩むときは悩みまくる、苦しいときは苦しみまくっていいのではないかと考えています。根拠はありませんが、悩みや苦しみにうんざりしないと、そういう人たちは(少なくとも私は)次のステップに進めないと思うからです。

 

さて、私の能力がいま不足している。仕事に戻ってもおそらく実力が足りないだろう。以前は失敗するべく失敗したのだから、これからもまた失敗するかも。と考えることは至極まっとうだと思います。そして、それはイヤだと私は思った。

 

心底イヤだと思ったら、どうすれば失敗しないかな、うまくいくかなと考え始めます。というか、考えたくなるし、うまくいく方法を知りたくなります。

 

仕事術の本はたくさん出ています。私はトヨタ式やグーグル等のうまくいっている会社の本を読みました。実は休む前にも読んだことがありました。たしか学生のときから入社当初にかけてです。今回読んだ方が頭にすんなり入りました。何より、良いことが書いてある!と思うと、実践しなきゃいてもたってもいられなかったです。そして、繰り返し読みました。やってみて気づいたことと重なり合うのか、読む度に新たな気づきが得られます。

 

また、能力不足の自分が仕事を抱えたから、失敗したのだとも言えます。その仕事は上司から押し付けられたのかもしれません。それでも、結局は、あなたは引き受けてその仕事を抱えたのです。

 

私の場合は、自分一人で、少なくとも与えられた環境の中でなんとかしてやろうとしました。人手不足だけど人手は補充してもらえず、別の仕事が降り注ぎます。で、自分は能力不足なのだからうまくできない。言い換えるならば、この仕事をこなすには自分一人では無理だ。(仕事を引き受けないという手もあるでしょう。可能ならばですが)

 

その当時、そう思えたならば、誰かに助けを求めることができたでしょう。もちろん、与えられた環境の中では助けを依頼しましたが、それでも足りない場合は、自分で環境を作り出せばよかったのです。非公式にでも。

 

けっきょくは、自分にはできるという慢心、これぐらいできないといけないという義務感、そういった感情によって、自分だけで何とかする状況に自ら追い込み、また、自分だけで何とかなる仕事なのかどうか、という客観的な認識に乏しかったことが私の敗因でした。

 

そして、その敗因を反省し、次はこうしようという対処法を探しています。私はその道半ばにいます。そして、その対処法が確かなものなのかは実際にやってみないとわからない、自分の中に確信を持てない。だからこそ、私は早く復帰したい。そして、対処法が見つかったとき、どれだけ気分がいいだろうとわくわくするのです。

 

悩んでいた時とは大きな違いです。自分でも不思議な心持ちです。

 

ここで、悩むときは悩んだ方がいい、と言いましたが、なぜ、その時まで悩みに悩めなかったのかが気になったのでここで考えてみます。

 

おそらく、別の目標や希望にとらわれていたのではないでしょうか。休職直後はできるだけ早く復帰したい、自分の実力はこんなものじゃない、と思っていました。

 

それは上記の慢心、義務感から派生したものだと思います。もっとやれる、という慢心。早く戻ることが会社のためだという義務感。でも実際は、実力は発展しておらず、自分のやり方も変えず、同じ失敗を繰り返す可能性が高い。

 

そういう意味では、私は休職という経験をして、とてもよかったと思います。もちろん、家庭や経済的負担はありますが、それはこれから巻き返します。恩返しのような、自分のためだけではない気持ちもあるのです。同じ失敗を繰り返しそうな可能性について気づいて、対処する時間をいま得ていることがうれしいのです。

 

これが私が本記事のなかで伝えたいことのため、繰り返し書かせていただきます。

 

身の程を知らずに、大きく勝とう(仕事をなんとかしてやる)として、負けた。今は負ける程度の実力なんだと認めて、勝てる工夫をコツコツと積み上げていきたい。一足飛びでない、そういう心境です。

 

最後に仕事の向き不向きについて。そのことについて思いっきり悩みましょう。試してみましょう。私も道半ばです。文字通り、模索し探検したい。冒険者のような楽しみな心持ちであることが、以前と異なる点です。